ひろげよう人権|東京人権啓発企業連絡会

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人権に関するさまざまな知識のコーナーです

資料館探訪 産業・教育資料室 きねがわ

東墨田会館外観

2014年8月にリニューアルした資料室を訪れ、岩田明夫室長にお話をお伺いしました。
展示されている木下川の皮革産業の歴史などを中心にご紹介します。

東京人権啓発企業連絡会 広報委員会

きねがわ
東京スカイツリーで有名な墨田区に、荒川と中川と中居堀(現在は暗渠)に三方を囲まれた木下川(きねがわ)と呼ばれている地域があります。近年、ここで鞣されるピッグスキン(豚革)を使用した「木下川ブランド」がテレビで取り上げられ、注目されています。現在、ほとんどは原皮で輸出されるのですが、日本国内で鞣される豚革の9割以上が木下川で鞣され、その品質の高さからヨーロッパにも輸出され、有名ブランドの品質をも支えています。
昔、木下川は「木毛川(きげがわ)」「木毛河」と呼ばれ、1398(応永5)年頃の書物に「上木毛河」「下木毛川」として現れ、その後、江戸後期に「木下川」となります。 1868(明治元)年には東京府に編入、1966(昭和41)年に現在の墨田区となりました。
木下川と近代皮革産業
1872(明治5)年、陸軍・海軍省の設置や徴兵令による兵隊の装備拡充のために、また、その後の欧化政策の影響などで人びとの服装が洋服に移りはじめ、皮革製品の需要がさらに高まります。
この頃、東日本の皮革産業の拠点は浅草でしたが、木下川に皮革工場が増え定着し始めたのは、浅草の鞣し業者を政府が強制移転させるという経緯からでした。

皮と薬剤と水を入れ、回転して撹拌しながら化学的処理を行う機械、別名「タイコ」。大正3・4年頃から使用され始め、鞣す皮の数もこれにより増えた。

1892(明治25)年の警視庁布告「魚獣化製場取締規則」により、皮革関連業者などに市内※1の建設を許さず、市内の業者は10年以内の市外移転を命じられます。これにより、油脂業、骨粉や膠製造など皮革に直接関係ある業種が次第に木下川などに移り始めますが、当時の木下川は葦などが生い茂る湿地帯や田んぼばかりで、大雨で堤防がたびたび決壊し大水に襲われたため、“製皮業になるなら泳ぎを先に習え”といわれるほどだったそうです。
また、それまでは牛皮・馬皮がほとんどでしたが、日清・日露戦争によりさらに皮が必要になり、明治の末頃には豚の皮も鞣すようになります。
1911(明治44)年、水害対策として荒川放水路事業が着手され、19年後に漸く完成しますが、放水路の幅を確保するために木下川の面積は以前の半分ほどになって住民も減り、町の姿がだいぶ変わったそうです。
関東大震災から2年後の1925(大正14)年、東京府が「市街地建築物法」に基づき、皮革業者に再度移転を命じます。15年以内にすべて移転という行政指導は、地域の環境改善という方向ではなく、一方的に追い立てる施策でしたが、荒川の組織と連携し陳情書を出すなどの結果、郊外移転は撤回されました。
木下川小学校の歴史

新築された木下川尋常小学校(昭和12年4月)

1937(昭和12)年4月、東京市向島木下川尋常小学校(当時)が開校します。3カ月後に盧溝橋事件が起こるなど不穏な情勢の最中でしたが、地域の皮革関連産業は3年前の57社から91社にも増え、周辺の小学校を含めて児童が急増するなど、皮革産業を中心に町が活性化していく時代でした。
開校の3ケ月前、某新聞社が、1940年の“幻の”東京オリンピック※2の前に三河島や向島にある部落のような醜景を、この大東京の真ん中にさらけ出して得々としているようでは、東京市民もまだ文化人といえない」と掲載。これに対して一部で抗議運動が起きました。
このような時代背景の中、この地域でその営みを続けていくことを認めさせた上での学校創立という大きな意義があり、そこには当時の地域の人たちの総和としての学校創立に向けた熱い想いがあったそうです。
開校以来、地域の産業と深い関わりを持ち続け、1972(昭和47)年に東京都学力水準向上事業指定校となり、2003(平成15)年の閉校まで“人権尊重教育推進校”として人権教育に取り組むなど、東京の人権・同和教育運動はこの地域から出発したということもできるでしょう。
産業・教育資料室 きねがわ
閉校の翌年、校舎内に開設され、「皮革と油脂」を中心とする木下川の産業資料と木下川小学校の学習成果を収集・保存・整理・展示していましたが、2014(平成26)年の校舎取り壊しにより、現在の東墨田会館に移りました。 資料室の利用者実績
毎年2000人を超えますが、2015年度は2600人を数えました。墨田区内の小学校の社会科見学先として定着しており、教育施設として学びに来る中高生や大学生も増えています。

昔の鞣し作業に使われていた道具類

展示コーナー
(1)木下川のまちの歴史
当時の貴重な写真や資料を基に木下川の歴史を分かり易く展示
(2)木下川の産業「皮革・油脂」
1960年代頃までの道具を展示し、皮革産業の変遷を感じさせる
(3)学校の歴史、教育実践、皮を使った子どもたちの作品
66年間にわたり、教師と子どもたちが積み上げてきた学習成果を展示
(4)特別企画展示 〜豚皮皮革の未来に挑戦〜
木下川で創られるさまざまな皮革を実際に手にとることができる

DVDコーナー
地域学習用の「木下川の皮工場を見る〜皮を革に変える〜」や木下川解放子ども会作成の「よみがえった黒べえ」など、8作品を揃えています。

体験コーナー
学習後、簡単な皮革小物作りの体験ができます。しおり、ストラップ、ペンケースの3種類から選びます。事前に予約が必要で、所要時間は約30〜40分、実費費用@300〜500円。

最後に、岩田室長のお話をご紹介いたします。
「町の象徴であり、人権教育を発信し続けた木下川小学校が消え、現在そこに特別養護老人施設が建設されており、工場の跡地等にも建売住宅やマンションが建てられ、昔の町並みは失われつつあります。
明治以降、皮革と油脂の町として多くの新しい住民を受け入れてきましたが、今後さらに豊かな人権に満ちあふれた町として歩み出すためにも、この資料室が果たす役割は大きいと考えます。
また、皮革を通じて日本の“捨てない文化”はここ木下川に脈々と生きており、“再生の仕事”を担っています。差別の対象としてではなく、高い技術、価値あるものとしてこの地域を見せていきたい。ここに学びに来られる人たちと、木下川のこれからを一緒に考えていければいいと思います。」 訪問時、最後にペンケース作りに挑戦しましたが、皮革産業について学習したあとに手作業で小物を作る体験がとても感慨深く印象に残りました。
産業・教育資料室きねがわ
産業・教育資料室きねがわ

ホームページ:kinegawa.com
(上記から移転しました)

※1:1889(明治22)年から1943(昭和18)年まで旧東京府東部に「東京市」があり、1892年当時、木下川は「大木村」「墨田村」で“市外”、浅草は“市内”であった。

※2:史上初のアジアで開催されるオリンピックとして準備が進められていたが、日中戦争の影響などから日本政府が1938年に開催権を返上した。

2017.5掲載

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