荻上 チキ:マイクロアグレッションと ステレオタイプ
プロフィール
評論家
荻上 チキ (おぎうえ ちき)
評論家。メディア論を中心に、政治経済、社会問題、文化現象まで幅広く論じる。
NPO法人「ストップいじめ!ナビ」代表理事。一般社団法人「社会調査支援機構チキラボ」所長。ラジオ番組「荻上チキ・Session」(TBSラジオ)メインパーソナリティ。
「荻上チキ・Session-22」で、2015年度ギャラクシー賞DJパーソナリティ賞、2016年度ギャラクシー賞大賞を受賞。著書に『未来を作る権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)など。
マイクロアグレッションとは何か
昨今、「マイクロアグレッション」という言葉が注目されるようになっています。「マイクロアグレッション」は、直訳すれば「小さな攻撃」「小さな侵犯」という意味です。「××人は劣っている」「○○人はこの国から出ていけ」といった分かりやすいヘイトスピーチと比べ、「マイクロアグレッション」は、日常生活の中に潜む、小さな差別のことを表します。
例えば「女性ならではの丁寧さだね」「ゲイの人はセンスがいいね」など、褒め言葉を装った固定観念。「気象予報士/お天気お姉さん」「アナウンサー/女子アナ」「俳優/女優」「警官/婦人警官(婦警)」など、ジェンダー化された言葉の使い分け。
女性医師に「看護師さん」と話しかけ、女性タクシードライバーに「運転手さん」ではなく「お姉さん」と呼びかけること。女性店長に対して「(男性の)上司を呼んで」と求めること。
男性のダンス動画には、体の使いこなしについての評価が並ぶ一方で、女性のダンス動画には、容姿への品評が並ぶこと。一定年齢の女性に「そろそろ子どもは?」と尋ねること。
こうしたマイクロアグレッションは、それ自体が差別であると同時に、次の差別を産むためのステレオタイプを日常に埋め込みます。相手に「あなたはマイノリティである」「マイノリティはこのようなイメージの元に生きるものだ」といったhidden message(隠された声明)を伝えることで、相手の尊厳を傷つけ、気力などを奪うものでもあります。
マイクロアグレッションは、誰もが加害者としても、被害者としても、関わったことがあるはずです。マイクロアグレッションは、ちょっとした会話の中、文章の中、制度の中に、差別でないようなそぶりをしながら、ふとした拍子に顔を出します。そして多くの場合、加害者も、時には被害者も、それが差別であることに気づかず、やり過ごされてしまいます。
ステレオタイプ、偏見、差別
マイクロアグレッションが「小さな攻撃」であるとして、それは具体的に、差別とどのように関わっているのでしょうか。そのことを理解するためには、差別の定義を確認しておくことが必要となります。心理学では、「ステレオタイプ」「偏見」「差別」は、それぞれ異なる概念として定義されています。「ステレオタイプ」は、あるカテゴリーにいると括られた人に対して、どういったイメージがあるのかという認知のこと。「偏見」(バイアス)は、ステレオタイプな他者のイメージに対する、拒否的・嫌悪的・敵意的感情のこと。そして「差別」は、あるカテゴリーに対してネガティブに作用する、行動や構造を指すものです。
ステレオタイプは「認知」として、偏見は「感情」として存在します。これらはいずれも「内面」の問題でもあります。他方で差別は主に「行動」として存在します。もちろんこれはあくまで、心理面に着目した場合の定義です。社会面に着目すれば、普遍的な権利を与えられず、特定の人のみに与えられる権利=特権が存在するような状況であれば、差別的環境であるとも言えます。
具体的に、ステレオタイプ、偏見、差別の例を見てみましょう。ある会議の場で、一人の高齢男性が、次のような発言をしたと想像してみましょう。
「女性がたくさん入っている会議は、男性だけの会議より時間がかかります。恥ずかしながら、私が所属している別の団体では、女性が増えて会議の時間が倍になってしまいました(笑)。女性は真面目で、競争意識が強いので、みんなが積極的に発言します。だから、発言の時間をある程度規制をしておかないと、会議が終わらずに困ってしまいます。でも、こちらの団体の女性たちは、みんなわきまえておられますね。ですから安心して、今後もまた、女性を呼ぼうということになるでしょうね」
この発言のうち、「女性は話が長い」「女性は競争意識が強い」という発言は、女性というカテゴリーに対する認知ですから、「ステレオタイプ」になります。また、「女性のせいで時間が伸びて困る・恥ずかしい」という発言は、話の長さを否定的に捉えた感情が伴っており、「偏見」といえます。そして、「女性の参加する会議は時間を規制する」「わきまえていない女性は、次は呼ばないでおこう」などの発言が、もし行動をともなった場合は、「差別」となります。
ただし、「ステレオタイプ」「偏見」は、それを口に出すという行動をとった段階で「差別」になります。そこに強い排除的な意図や行動が伴わなかったとしても、まさにマイクロアグレッションとして機能するわけです。
多くの人は、こうした指摘を受けると、キョトンとします。「差別なんて大袈裟だ」「誰かを攻撃する意図はなかった」「むしろ褒めているではないか」といった具合に。
差別態度には、好意的差別態度と敵意的差別態度があります。「女性は無能だ」といった発言は敵意的差別ですが、「女性は優しい」というのは好意的差別態度となります。一見褒めているようでも、特定の属性に対する思い込みを吐露している点で、問題含みとなります。
なぜ「女性は優しい」という発言に注意すべきなのか。それは、①多くのステレオタイプが「女性は無能だが、優しい」といった相補的な関係にあること、②こうした思い込みに基づき、実際の役割分担が行われがちであること、③目の前にいる個人にたいして、特定の尺度に当てはめた判断が行われてしまうこと…などがあげられます。
誰かを属性に絡めて「褒める」ということは、その人に対して、あるステレオタイプに合致する仕方で振る舞ってほしいという要求にもなります。それではやはり、その人個人の特性などを軽視し、あるカテゴリーで判断するということになってしまうのです。
なぜマイクロアグレッションなのか
マイクロアグレッションは、「マイノリティはお断り」といった露骨な排除やヘイトスピーチとはまた異なり、日常に埋め込まれた小さな攻撃を意味するものでした。この言葉は2010年、アメリカでコロンビア大学のデラルド・ウィン・スー教授が体系化したことで浸透していきました。マイクロアグレッションが着目されるようになった背景は色々です。一つには、多くの人が徐々に、「差別や偏見はよくない」という価値規範を内面化してきたことが関わっています。
今の社会は、表向きは、さまざまな差別を解消しようという目標を掲げています。そして人々は、「自分は差別をするような人ではない」という自己認識を持っています。
古典的な差別がまかり通っていた過去であれば、「私は差別をされる側ではなく、する側である」「あいつは差別されて当然なのだ」といった居直りが行われていました。しかし、人権意識や反差別規範が共有された状態では、「差別をする側」だと指摘されることは、とても居心地の悪いこととなります。
だからこそ、露骨な排除を行うような差別は控えられるわけですが、その一方で、人々には変わらず、ステレオタイプや偏見が存在し続けます。そして、内面にある認知や感情は、時折ぽろりと、表にこぼれてきます。
発言者には往々にして、「自分は差別をしないようにしよう」という規範が内面化されているので、まさか自分が差別をするわけがないと思い込んでしまうでしょう。だからしばしば、「悪意がない」状態で、相手を褒めるつもりで、面白い冗談のつもりで、あるいは侮蔑や恐怖を隠した上で、ステレオタイプや偏見を口にしてしまいます。
そんな時、「それも、差別なんだよ」と理解しあうために、マイクロアグレッションという概念が必要となります。攻撃側は一度の行動のつもりかもしれないが、言われる側は、何百回目の経験にもなり得る。その非対称性に着目させることもまた、この概念の重要なポイントです。
心理学の発展によって、ステレオタイプや偏見を向けられること、あるいはマイクロアグレッションをぶつけられることが、精神的健康を損ない、職場の心理的安全を脅かすものであることがわかってきました。
他方で、差別について議論する運動が発展し、人々が活発に、「されて嫌だったこと」「不快だったこと」を共有するようにもなります。そうした中で、「マイノリティが言われて嫌だったあるある」が可視化し、蓄積し、分類することも可能となりました。このような変化もまた、マイクロアグレッションという言葉への注目を促すものでした。
社会への「埋め込まれ」に注視
マイクロアグレッションという概念がユニークなのは、差別表現への解像度を上げてくれるだけでなく、内面化しているステレオタイプや偏見そのものの有害性に注目させてくれる点です。それでは、私たちのステレオタイプや偏見はどこから来るのでしょうか。ステレオタイプや偏見の共有、その役割を担うものの一つが、映画などのメディアです。ここでは、「アメリカにおけるアジア系差別」を例に考えてみましょう。
元々アメリカなどでは、アジア系に対するステレオタイプが、メディアによって培養されていました。フィクション世界の描写もまた、人々のステレオタイプの形成に大きな影響を与えます。だからこそメディア研究や文化研究、あるいは映画研究の中では、ハリウッド映画の中におけるアジア人の表象のされ方が、しばしば注目されてきました。
例えばアジア系の人物は、実際の人口比の半分程度しか登場していないこと。そしてその描写は、「エキゾチックでオリエンタル」「不気味で残忍」「ミステリアスで不可解」といった位置付けが与えられること。とりわけアジア系女性の場合、冷たく攻撃的な存在として描く「ドラゴン・レディ」タイプや、男性に対して従順で献身的に尽くし性的魅力のある「ゲイシャガール」タイプとして描かれることが多かったこと。アジア系男性もまた、「寡黙で頑固で、見栄っ張りな父親像」「ナヨナヨしてモテないギーク(技術オタク)」などの類型化が行われがちであること、などです。
日本で暮らす日本人の多くは、「ハリウッド映画における、日本描写のおかしさ」を、笑い飛ばしたり受け流したりすることもできるでしょう。多くの在日日本人は、具体的に被害を受けるわけではないためです。一方、在米日本人や日系人の場合は、受ける影響が異なります。ステレオタイプを含む表現そのものが、「マイクロアグレッションの種」になり、明日職場や学校で、あるいはストリートやオンライン上で、偏見を伴う言葉がけを味わったり、雇用や進学時の判断材料に使われるかもしれません。
メディア経由でステレオタイプなどが培養されないためにと、クリエイターやファンたちは、作品の描写のあり方について、活発な議論を行なっています。マイクロアグレッションを社会的に学ぶ機会となる、さまざまなコミュニケーションについて分析すること。「作品批評」「メディア批評」を通じて、普段からステレオタイプについて考えることもまた、加害や被害を食い止めるための、重要な実践となると言えるでしょう。
2023.3 掲載