出口 真紀子:マジョリティの特権を可視化する
~差別を自分ごととしてとらえるために~
プロフィール
上智大学 外国語学部 英語学科 教授
出口 真紀子(でぐち まきこ)
ボストン・カレッジ 人文科学大学院心理学科(文化心理学)博士課程修了。
専門は文化心理学。文化変容のプロセスやマジョリティ・マイノリティの差別の心理について研究。本学では「差別の心理学」、「立場の心理学:マジョリティの特権を考える」などの科目を担当。趣味は、陶磁器の窯元巡り、居合道(武道)。
◆著書:『真のダイバーシティをめざして-特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』(監訳/上智大学出版/2017年)、『北米研究入門2-「ナショナル」と向き合う』(分担執筆「第六章 白人性と特権の心理学」/上智大学出版/2019年)など。コラムに「マジョリティがマジョリティの特権を追求する責任」 (「部落解放」731号〔水平線〕/解放出版社/2016年10月)、「マイノリティ側に人権教育の責任を押しつける加害性」(月刊「同和教育」であい第670号/全国人権教育研究協議会/2018年1月)執筆などがある。
なぜマジョリティが自らの特権に気づくことが重要なのか。差別の問題は、マジョリティ側の問題である、という前提に立ち、特権への無自覚がなぜ問題なのか、また、どのように変えていけばよいかについて述べたい。
マジョリティの特権を可視化した最近の例として、今年2月の英国アカデミー賞授賞式でのホアキン・フェニックスのスピーチがある。
映画「ジョーカー」で主演男優賞を受賞したフェニックスは「感謝と共に、葛藤を感じています。なぜならこの賞にふさわしい多くの(非白人)俳優仲間が同じ恩恵を受けることができていないからです」と映画界を批判し、「これは非白人の人々に、あなたたちはこの業界に歓迎されていない、というメッセージを送っていることにほかなりません」と訴えた。
さらに彼は「誰もお恵みで賞をもらったり、特別扱いされたいとは思わないはずです。でも実は私たち(白人)は毎年自分たちが優先的に賞をもらえるしくみで恩恵を受けている側なのです」と語った。
このスピーチについてみなさんはどう感じただろうか。名誉ある賞を与えられた恩を仇で返したと感じたかもしれない。あるいは、よくぞ言ってくれた!と拍手を送ったかもしれない。
このスピーチが評価に値する点は、白人であるフェニックス自身が白人が圧倒的優位な立場にある映画界を、非白人側を擁護する立場から公の場で批判したことだ。スピーチ後半で彼は「私自身、この問題に加担する一人として恥ずかしいと感じている」と自らも決して免罪されないと自省し、「この抑圧的なシステムを解体する側に回るのは、今までそれを作り、存続させ、甘い汁を吸ってきた人たち、すなわち、私たち、の責務なのです」と白人側の責任を真っ向から追及したのである。
本稿のテーマである「マジョリティの特権を可視化する」は、まさに上記のようなフェニックスの言動の話である。フェニックスは白人であり、欧米では人種的マジョリティ側に属する。自身の白人特権に自覚的であり、その白人特権を自分だけの利益のためではなく、白人特権の恩恵を受けることのない非白人の人たちを引き上げることに使っている。
今企業に求められているのは、「自分は差別なんかしていない」と思っているマジョリティ側が、実は目に見えないゲタを履かせてもらっていることにまずは自覚的になり、その理解を踏まえてマイノリティについて新たな考え方や行動様式を取り入れていくことである。
あなたはマジョリティ、それともマイノリティ?
マジョリティとは多数派という意味だが、ここでは数の多さではなく、より多くのパワー(権力)をもっている側を指す。民族、学歴、性別といったアイデンティティの中でみなさんがどれほどマジョリティ性をもっているかを自覚するため、図1のチェックリストの各アイデンティティ項目で自分にあてはまる方にチェックを入れてみてほしい。圧倒的にマジョリティ性の方にチェックが多い人は、社会の中でもかなり特権を有している側に属しているといえる。特に大手企業の社員は、おそらくマジョリティ性を多くもっているのではないだろうか。先ほどのフェニックスも米国では白人として、左側にチェックマークが入るマジョリティ性を多くもった側に属している。
では、マジョリティ性を多くもつ人たちは、マイノリティ性を多くもつ人と比べて何が違うのだろうか。マイノリティ側は差別や偏見の対象となっているが、マジョリティ側は日々そのような体験をせずに済んでいる。
差別されずに生きていけるということは、差別によって精神的にダメージを受けたり、自信を喪失したり、抗議の声を上げるといった行動にエネルギーを消耗したり、そうした行動をとったことで非難されたり、といった負のスパイラルに対処しなくても生きていける恩恵があるということだ。こうした恩恵こそが特権と呼ばれるのである。
特権とは自動ドアのようなもの
「特権」(Privilege)は、ある社会集団に属していることで労なくして得る優位性、と定義される。ポイントは「労なくして得る」で、努力の成果ではなく、たまたま生まれた社会集団に属することで、自動的に受けられる恩恵のことである。例えば、「大学に行くのが当たり前」という家庭に生まれた人には、そうでなかった家庭に生まれた人に比べて、親も大卒で経済的により恵まれた家庭で育った確率が高く、大学が自分がいつか所属する場所であるという具体的なイメージが描ける特権がある。大学に行けるかどうかはもちろん本人の努力や能力も必要だが、そもそも大学に行くのが当たり前と思える環境は本人の努力の成果ではなく、たまたまそのような家庭に生まれたことで得られる社会階級「特権」なのである。
特権とは、ゴールに向かって歩き進むと次々と自動ドアがスーッと開いてくれるもの、と考えればわかりやすい。自動ドアは、人がその前に立つとセンサーが検知して開くが、社会ではマジョリティに対してドアが開きやすいしくみになっており、マイノリティに対しては自動ドアが開かないことも多い。マイノリティはドアが開かずに立ちはだかるため、ドアの存在を認識できるし、実際認識している。
しかし、マジョリティ側はあまりにも自然に常に自動ドアが開いてくれるので、自動ドアの存在すら見えなくなってしまう。特権をたくさんもっていても、その存在に気づきにくいため、マジョリティ側は自分に特権があるとは思っておらず、こうした状況が「当たり前」「ふつう」だと思って生きているのである。
自分の特権に気づかないことがなぜ問題なのか
マジョリティ性を多くもつ人たちが、自らの特権に無自覚であることがなぜ問題なのか。一つは、「自分は特に優遇されていない」という認識のもとで暮らしているため、「自分は『ふつう』で、特別ではない」「私は差別なんかしていないし、何も悪くない」と思ってしまうことである。それは、差別がある現状に対して「自分は変わる必要がない」と思っているのと同じである。差別に関してマジョリティ性を多くもつ集団の人たちが「自分は変わる必要がない」と考えているということは、裏を返せば、「マイノリティが変わればいい」と考えていることになる。変わる必要性を自覚していない、または変わること自体に抵抗を示しているとなると、研修を繰り返しても残念ながら本質的な変化は期待できないことが多い。
特権への無自覚が問題であるもう一つの理由は、誤った差別の認識に陥りやすく、「逆差別だ」とマイノリティを責める思考になりやすいことである。「自分は優遇されていない」と思っているため、マイノリティ集団に対して企業や政府が是正措置をとったり支援したりすると「自分よりもマイノリティが優遇されている、これは逆差別ではないか」と、マイノリティが過度に保護されていると考えてしまいかねない。
例えば日本では、「女性専用車両があるのは不公平だ」「男性には男性専用車両がないじゃないか」といった声があがるが、そもそも性被害の対象になりやすい女性への保護措置であるにもかかわらず、男性であることでさまざまな特権を得ていることに無自覚であるからこそ出る発言だと考える。
また、日本で1969年から2002年まで行われた同和対策事業について「逆差別だ」「部落の人だけ優遇するのはズルい」といった声が昔も今も聞かれるが、これも長年にわたって差別と貧困を強いられてきた集団への是正措置であることが忘れられている。またヘイトを発信する団体が「在日コリアンは日本人よりも特権を受けている」という誤った認識と嫌韓意識によって在日コリアンが優遇されていると主張するが、これは日本人が有する特権(国籍、言語、文化、アイデンティティなど)に無自覚であることが根源にある。
こうした現象はすべて「マジョリティ側の特権の自覚不足」が根底にあると理解できるだろう。
マジョリティの特権について教える理由
マジョリティの特権についてなぜ教える必要があるのか。それは、特権のある人は特権があることに自分ではなかなか気づけないからだ。やはり、気づきを促すためには、研修などで気づく機会を設ける必要がある。特権に気づくためには、自分のマジョリティ性から成る立場を認識・理解し、特権を体験するアクティビティ(紙ボール投げアクティビティ、図2参照)が有効である。ここでは、最初にファシリテーターがアクティビティのルールを読み上げ、一人一枚ずつ紙を配り、名前または本人とわかる記号を書いてもらい、ボール状に丸めて一斉に投げてもらう。ゴミ箱に入れた人の名前を読み上げ、手をあげてもらう。大抵、前列に近いほど入る人数が多くなる。それぞれ違う列の人に、投げたときどのような想いだったかを聞いて全体で共有する。
前の方に座っている人たちは「入るだろうと思った」とか「入らないと恥ずかしい」などと口にするが、後ろに行くほど「入る自信がなかった」「入らないと思ったが一応投げた」、一番後ろの方だと「どうせ入らないと思った」「諦めて投げもしなかった」といった発言がある。
こうした声が共有されることで、参加者はそれぞれの立場からの想いを知ることができる。また、後ろの席の人は明らかに不公平だと感じるが、「これは不公平です!」という声は一番前の席の人からは聞こえない。
このアクティビティを社会の縮図と捉えると、前の方の席はマジョリティ性の多い特権を有した人で占められ、後ろに行くほどマイノリティ性の多い人たちが占めている。それぞれの人の「投げる」行為は努力を示しており、一番前の人も努力をしていないわけではないが、後ろの席の人に比べて少ない努力で目標達成できることが理解できるだろう。
一番前に座っている人たちは自分の特権には気づかない。見えているのは自分とゴミ箱の間の距離だけ。最後にファシリテーターは「あなたたちはさまざまな特権を有する立場にいることに気づきましょう。そして教育という名の特権を活かし、自分より後ろの席にいる人の支援にあたりましょう」と締めくくる。
マジョリティの特権に気づくことの利点
特権に気づくことで期待できるメリットとして3点挙げたい。(1)差別の問題をマジョリティ側が自分ごととして捉えられる
例えば、企業で「担当者に会わせてほしい」と依頼されたとき、女性の担当者が登場すると「男性に代えてほしい」と言われることがしばしばある。明らかな女性差別だが、これをマジョリティ側の男性が、単に「女性差別」で終わらせるのではなく、「男である自分は、性別を理由に『担当者を代えてほしい』と言われることはない特権がある」という風に、特権という観点から捉え直すことをお勧めしたい。性別という自分では変えようのない特性で差別されるのは精神的にきついものがあるし、自信を喪失させる結果ともなりうる。そういうことを経験することすら想定していない男性は、これが特権である、と言い換えることで、初めて自分の男性としての特権をきちんと正面から把握できるのだ。
女性差別である、で止まってしまうと「自分は差別していない、これは差別している人の責任だ」という風に自分ごととしてはなかなか考えにくくなるので、特権という概念が有効である(図3を参照)。
(2)特権があることによって、どれだけ社会を変えやすい立場にいるかが自覚できる
マジョリティ側は周りから「中立」とみなされやすいという強力な特権をもっている。例えば飲み会で男性から女性に「今、生理なんじゃない」などといった発言があったときに「それってセクハラですよー」と女性が言うのと男性が言うのとでは、伝わり方が違う。マイノリティ(この場合女性)は既に「バイアス」がかかっていると見られてしまうが、マジョリティ側はバイアスがかかっていない(実際はどうか別として)と見られるため、ハラスメントや差別に異議申し立てをしても好意的にとられる利点がある。
(3)アライとなることでマイノリティとマジョリティが共に生きやすい社会が実現できる
ここでいうアライとは、マジョリティ集団の一員でありながら、マイノリティ集団への差別や不公正に対して異議を唱え、行動を起こす人々のことで、例えば、白人が人種差別に反対する、男性が性差別(セクシズム)に反対する、日本人が在日コリアン差別に反対するといったことが挙げられる。すべての人をアライにすることは不可能だが、アライの数が増えることで、誰もが声を上げやすくなる社会が実現できる。マイノリティが声を上げやすくなることで、マジョリティが声を出しにくくなると考える人もいるが、それは、今までマイノリティを抑えつけていたからこそ声が出しやすかっただけ、と特権という観点から捉え直すべきだろう。
アライとして男性ができること
男性が性差別に反対する行動として、若い男性はセクハラに対して「今はそういうのよくないですよ」とか、「セクハラですよ」とか言うことで比較的介入してくれると聞いている。男性が一人ではなく複数で、「やめましょう」と言ってくれることで女性は大変救われる。高い地位にある男性は、さらに制度を変える力をもっている。アメリカ国立衛生研究所(NIH)のフランシス・コリンズ所長は男性だが、2019年6月に「これからは、男性科学者だけが講演登壇者の科学会議に自分は登壇しない」と公言した。理由は、「女性や少数しか存在しない人を増やすといった包括的な努力はトップのレベルから始めなくてはならないから」としている。彼は自分の立場を使って、女性や少数者の科学者のアライとして具体的な行動で示した。こうした形で男性が率先してリーダーシップを発揮することが望ましい。
日本でも、2019年8月に開催された「あいちトリエンナーレ」で、国内で開かれる国際芸術祭としては初めて「参加作家の男女比を同等にする」と打ち出して話題になった。津田大介芸術監督は、前年に起きた医大入試差別事件をきっかけに「これだけ男性にゲタをはかせる仕組みが構造になっている。それを変えるには具体的に何かアクションをおこしていかなくてはいけないと、作家の男女比を同等にしようと思ったんです」と語り、美術界の男女不均衡に一石を投じた。
さらに彼は、「女性から『女性の芸術監督が女性を増やすと言っていたら、肯定的な反応にならなかったよね』と言われたが、それも分かります。僕はまさに高いゲタをはかされているわけですよ」と述べている。(2019年5月21日 朝日新聞デジタルより引用)
つまり、女性だと批判されるのに、同じことを男性がした場合、すんなり通ったりするのだ。これこそが男性特権であり、それを用いて女性を引き上げるのも、アライとして男性ができる行動だと思う。
私の知り合いの男性大学教員がある雑誌の編集委員になるよう打診されたが、彼は「もう男性編集委員は十分いらっしゃるので、私の席を女性に譲ります」と断ったと聞いて、なるほど自分のポジションを譲るという選択肢もあるのだと感動した。それを彼は決して言いふらすのでもなく、たまたま私が個人的に知っていることでわかったことだが、男性側からさまざまな形でのサポートができることを表している。
自分の特権に自覚的になることは、時間はかかるが、意識していると少しずつできていくものだ。焦らず、マイノリティの声に耳を傾け、彼らに見えていることは自分には見えていないことが多いだろうという謙虚な気持ちでいることが大切である。差別の問題を自分ごととして捉え、自分自身を変えていかなくては、と考えることが、真のダイバーシティを実現するための鍵となる。ぜひ仲間と共に一歩を踏み出してほしい。
マジョリティの特権について理論と実践を
より深く学びたい方にお勧めします。
2020.7掲載