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有識者から当会広報誌「明日へ」に寄稿していただいた記事の転載です

川内美彦:わが国におけるアクセシビリティ整備と今後の方向性

プロフィール

川内 美彦(かわうち よしひこ)

アクセスコンサルタントとして、アクセスプロジェクトを主宰。一級建築士、工学博士。
だれにも使いやすく、安全な建物やまちづくりについて発言している。また「福祉」という視点ではなく、障害のある人の社会への関わりを権利として確立していく活動を展開している。2000年「ロン・メイス21世紀デザイン賞」受賞。

著書:
『ユニバーサル・デザイン-バリアフリーへの問いかけ』学芸出版社(2001/4) ほか多数。

はじめに

障害のある人は社会生活を送る上でさまざまな困難がある。その困難はその人が歩けなかったり見えなかったりすることが問題なのだろうか。あるいは障害のある人のニーズを反映した社会環境が整備されていないことが問題なのだろうか。
私たちが「障害」と呼んでいる言葉の中には大きく分けて二つの側面が含まれている。一つは本人の側にある「障害」であり、もう一つは社会の側にある「障害」である。前者のように本人の事情の側から見る立場を「医学モデル」と呼び、後者のように社会の側から見る立場を「社会モデル」と呼ぶ。
障害のある人が社会参加できるような状況を作るために、バリアフリーがしばしば行われる。バリアフリーでは本人への治療やリハビリは求めない。バリアフリーの関心事はいかにして社会環境を変えていくかであって、社会モデルの考え方によるものだと言える。
現在では国際的に、障害は本人の事情(医学モデル)と社会の不備(社会モデル)との相互作用によって生じているという認識が共有されており、その状態を改善するには、本人の障害を「治す」のではなく、社会環境の整備が重要だとされている。「リハビリすべきは社会だ」という考え方である。
本稿では社会モデルを中心としてバリアフリーについて述べる。日本ではバリアフリーという言葉になじみがあるが、国際的にはほとんど使われておらず、アクセシビリティという表現が一般的である。そこで本稿ではこれ以降、主としてアクセシビリティという言葉を用いる。

アクセシビリティの歴史

わが国のアクセシビリティ整備は、1969年に仙台の障害当事者を中心に起こった「生活圏拡大運動」から始まったとされている。その後、1974年に「町田市の建築物等に関する福祉環境整備要項」が作られ、行政が政策課題として取り組む姿勢を示した。車いす対応トイレやスロープなど、それまで無かったものを社会に取り込むのであるから、先駆的な自治体が主導して設計基準を作り、それをもとに公的施設を中心に整備が進んでいった。
現在のわが国のハード面におけるアクセシビリティ整備は、世界レベルから見て決して低いものではない。特に大都市圏はよく整備されている。一方で、ハードだけでは十分に対応できていない場合の、周りの人の協力は不十分だといわれている。「どう手助けすればいいかわからない」、「素人が手伝っていて何か起きたら責任はどうするのだ」などという声が常にあがってくる。近年は海外経験のある障害のある人も多くなってきており、海外ではちょっと困ったときに周りからさっと声がかかり、手が出てくる、そのくせ普段は変にベタベタしないなどという、周りの人との関係についての経験談もよく聞くようになった。
ハードだけではすべてを解決することはできない。ハードの環境と当事者のニーズの隙間をどう埋め合わせていくかは私たちの社会が急いで向き合わなければならない問題であり、社会に出ていって目的の行動を取るというゴールを実現するためには避けて通れない問題である。

合理的配慮

前述のようなハードの環境とニーズの隙間の関係について、ここ数年さまざまに議論されているのが「合理的配慮」である。合理的配慮とは欧米ではすでに以前から一般化していた考え方であるが、わが国では2014年に批准した「障害者権利条約」によって広く知られるようになった。同条約を批准するために、2013年に「障害者差別解消法」が作られたが、そこでは合理的配慮の提供について行政機関は義務、民間事業者の場合は努力義務が求められている。障害者権利条約においては、合理的配慮の提供について行政機関と民間事業者で扱いを変えるという発想はない。そこで東京都は条例によって、民間事業者においても合理的配慮の提供を義務化している(図1)。

図1:合理的配慮の提供に関する規定
(東京都パンフレット「みんなで支え合うともに生きる東京へ
-障害者への理解促進及び差別解消の推進に関する条例-」 平成30年11月)

ある商店に設計基準に合致したスロープがあるとする。しかしそこを使う車いす使用者は、自力で上がることができる人もいるし、自力では無理な人もいる。基準を設けるということは一線を引くということであり、必ずそれでは使えない人を生み出すということでもある。しかしながら、たとえば店の人がその車いすを押すという支援を提供すれば、店内に入って目的を達成することができる。
このように、その人の行動の目的を実現するためにニーズに合った支援を提供することを「合理的配慮」という。そのとき店の人が重度の腰痛で、手伝うことによる負担が大きすぎる場合は、「過重な負担」ということで、支援を提供しなくてもいいということも容認されている。
商店にスロープを付けることは車いす使用者などが店内に入れるようにすることであるが、店内に入ることは目的ではなく、スロープはそこで買い物をしたりすることを実現させるための手段である。もしスロープがなかったり十分に機能しない場合は、人手などの別の解決方法を考えて、とにかく本人の目的を実現しようというのが合理的配慮の趣旨である。先述したように、合理的配慮は障害者差別解消法によって法的に求められている。決して高い費用や時間がかかるような解決方法を求めているわけではなく、障害のある人なども他の人と同じようにまちの中で行動し、自分の目的を達成できるようにするための、ちょっとした支援が目的なのである。

車いす対応トイレの整備

町田市以降、いくつもの自治体が類似の取り組みを始めたが、常にその中心には車いす対応トイレがあった。それまでは使えるトイレが社会の中にあるということは期待できなかったのに、使えるトイレが(たとえ少数でも)町の中にでき始めたということは、車いす使用者には画期的なことだった。
70年代にはすでに手動運転装置によって自分で車の運転ができる車いす使用者もいた。しかし、自由に車を運転できたとしても、トイレのときには帰宅しなければならないというのでは、外出範囲は限定されてしまう。車を運転できない人で移動に困難のある人は、当時の公共交通は車いすにはほぼ利用困難であったから、移動の手段とトイレという二重の制約で外出に大きな困難があった。しかし、公的施設だけだとしても、町の中に車いすで使えるトイレがあれば、ここのトイレ、あそこのトイレとつなぐことで、これまでとは比べものにならない広さの行動が可能になったのである。70年代なかばには、私の住んでいた田舎の町にも、市役所と福祉会館の2カ所に車いす対応トイレがあった記憶がある。町田市のような「要綱」を持たない自治体でも、車いす対応トイレの整備は案外速いスピードで広まっていっていたようである。
民間でのアクセシビリティ整備については、1994年の「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建設の促進に関する法律」(ハートビル法)によって努力義務が求められるようになった。しかしそれ以前から、スーパー、デパート、ショッピングセンターといった大規模物販施設が率先して、物的環境整備と接遇の面で障害のある人を顧客として積極的に受け入れようとしてきていた。この傾向は今日まで続いており、現在の大規模物販施設では、トイレが排泄の場としての位置づけから発展して、ストレスが多く忙しい現代社会におけるほっと息抜きできる場として、より快適で落ち着く空間を提供し始めている。またトイレと並行して授乳施設の充実も著しく、すべての人にとっての快適な空間づくりをめざして発展していく様子は、ユニバーサル・デザインの事例として、さまざまな示唆を含んでいる。

トイレの重要性

多くの人は日常生活ではトイレにあまり困ってはいない。どこにトイレがあるかは各自がよく把握している。しかし見知らぬ町ではそうはいかない。それでも国内であれば、コンビニだとかデパートだとか、おおよその見当はつく。しかし海外では見当が全くつかない。治安の関係で、町行く人にトイレを公開しているところがほぼない国もある。

多くの人が不自由なくトイレが利用できる環境とは、以下の4点である。

1.トイレに行くまで我慢ができる。
2.その我慢できる時間内(範囲内)に使えるトイレがある、あるいは見つけることができる。
3.トイレまで移動することができる。
4.トイレが使える状態である。


これらの条件が一つでも欠けたら、たちまちトイレは重大な社会問題となる。現代の日本は、これらが問題にならないくらいトイレがよく整備され、維持管理されている。そして、社会の治安の良さから、これほど一般ビルのトイレが開放的で利用しやすい社会も、世界的には稀である。
トイレの重要性は障害のある人も同じである。いやむしろ、障害があるがゆえに更に重要だとも言える。障害によっては、尿意や便意を感じない、あるいは感じても我慢することができず、排泄までの時間が極端に短い人が結構いる。こういう人はトイレの行列に並ぶということがそもそもできない。予防としておむつを使う人や、早め早めにトイレに行く人も多い。
障害のある人のためのトイレというと、男女の性別トイレの間にある広めのトイレだと思う人が多いと思う。しかしあれは、もっぱら車いす使用者を想定して作られており、障害のある人がみんなあそこを使うわけではない。たとえば視覚障害のある人は手を伸ばせば何かに触れることができる狭い個室のほうが空間把握しやすいので、普通の性別トイレを好む傾向がある。一方、盲導犬と共に行動する人は、犬と一緒に入れるスペースが必要なので、車いす対応トイレを選ぶことも多いようである(写真1)。

写真1:盲導犬

車いす使用者は社会においては少数派である。なぜその少数派のためにあのような特別な、しかも広いトイレがいるのか。そこに、少数派ではあるものの、極めて深刻なニーズが見えている。多くの場合、車いすでは既存の性別トイレが使えない。個室のドア幅が狭くて車いすが入らない。たとえドア幅が広かったとしても、使用時にドアが閉められない。したがって、車いす対応トイレがないと、車いす使用者が使えるトイレは社会の中に「ない」ということであり、対応が強く求められてきたのである。
また近年では、車いす対応トイレが男女共用であることの重要性が注目されている。車いすは使っていないけれど排泄時に介助のいる人は複数でトイレに入る必要があり、介助者は同性であるとは限らないため、共用トイレはありがたい場所である。また心と体の性が一致しないなどの性的マイノリティにとっては、自分の意に沿わない性別のトイレに入ることは苦痛であり、ここでも性別を規定しない共用トイレとしての車いす対応トイレは、社会生活を送る上で大きな助けになっている。
わが国のトイレには、人工肛門などを装着した人のための設備(写真2)、大人用のベッド(写真3)、着替えをするときに足を乗せる台(写真4)など、他の国では見られない設備が多くある。また、温水洗浄便座など、海外では即座に盗難か破壊の対象となりそうな高価な機器が公共トイレに設置されている。そして、そのための操作ボタンもいろいろあって、世界で一番複雑なトイレであることは間違いない。しかしそれは世界で最も多様なニーズを受け止められるトイレであり、これを世界からやって来る人たちに使ってもらうには、今までのような、それぞれのニーズに応じた機器を増やしていくやり方ではなく、いかに整理し、シンプルにしていくかの発想も求められる。

権利としての社会参加

地方自治体の取り組みに引っ張られるように、国は1994年のハートビル法のあと、2000年の「高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律」(交通バリアフリー法)、2006年の「高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律」(バリアフリー法)といった具合にさまざまな法律や施策を打ち出してきている。また2005年に国土交通省は「ユニバーサルデザイン政策大綱」を発表して、同省の施策の柱にユニバーサル・デザインを据えた。
障害のある人の社会参加についての世界的な考え方は、障害のある人も他の人と同じような生活を送る権利を持っていて、社会はその実現に力を尽くさなければならない、というものである。その具体的な形が、先述した「障害者権利条約」である。
この条約では「他の者との平等」という目標を掲げている。すなわち、障害のある人は、その社会で他の人が享受できているレベルと同等な社会生活を営む権利をもっていて、それを妨げるのは差別である、という認識である。
本稿で述べているアクセシビリティに関して障害者権利条約では、「人権及び基本的自由」をベースとして、障害のある人は建物、道路、輸送機関などにおいて他の者と平等に施設及びサービスを利用する機会を有していると述べて、国にそのための措置をとることを求めている 注1

一方で、国土交通省の、わが国の障害のある人の権利に関する考え方は異なるようである。 バリアフリー法の公共交通部門に関して設置された「移動等円滑化のために必要な旅客施設又は車両等の構造及び設備に関する基準等検討委員会」の第1回会議(2016年10月31日)で以下のやり取りが行われている 注1

委 員:障害者差別解消法の根本には障害者権利条約がある。
障害者が公共交通機関を利用することは権利と考えるか。
事務局(国土交通省):移動権については、(中略)社会的コンセンサスが得られているとはいえない状況。(後略)
委 員:権利ではないということか。
事務局:少なくとも社会的なコンセンサスを形成する必要がある状況ということ。
委 員:障害者権利条約は批准されており、国内法も準拠する必要があるのではないか。
事務局:移動権のあるなしにかかわらず、バリアフリー法に基づきバリアフリー化を進めているところ。
注1
【障害者権利条約前文】
(c)(前略)障害者が全ての人権及び基本的自由を差別なしに完全に享有することを保障することが必要であることを再確認し、

【障害者権利条約第九条 施設及びサービス等の利用の容易さ】
1 締約国は、(中略)障害者が、他の者との平等を基礎として、都市及び農村の双方において、物理的環境、輸送機関、情報通信(情報通信機器及び情報通信システムを含む。)並びに公衆に開放され、又は提供される他の施設及びサービスを利用する機会を有することを確保するための適当な措置をとる。(中略)特に次の事項について適用する。

(a)建物、道路、輸送機関その他の屋内及び屋外の施設(学校、住居、医療施設及び職場を含む。)
*1
第1回「移動等円滑化のために必要な旅客施設又は車両等の構造及び設備に関する基準等検討委員会」議事概要
http://www.mlit.go.jp/common/001155288.pdf

「他の者との平等」の実現に向けて

以上をまとめると、障害のある人が公共交通機関を利用することについて、国土交通省としては現段階では権利だと考えてはいないということである。そして権利と考えるには社会的コンセンサスが必要であり、「移動権のあるなしにかかわらず」バリアフリー化を進めていくと述べている。すなわち、移動の権利は認めないがハードは整備していくということである。これは障害者権利条約に述べる、「人権及び基本的自由」という価値観をベースにして「他の者との平等」な暮らしを権利として実現していくという国際的な姿勢とは異なっている。そして現実では、ノンステップバス(写真5)やユニバーサルデザインインタクシー(写真6)と呼ばれる車いす対応の乗り物が走るようになっているにも関わらず乗車拒否が起こり、拒否された側からはそれに対してバリアフリー法を根拠にしての有効な反論ができないでいる。
障害者権利条約を推進したのに社会的コンセンサスがないから権利を認めないというのは矛盾した姿勢である。コンセンサスがあるから批准まで持っていけたのではないだろうか。この矛盾に背を向けることなく、国はアクセシビリティの整備において、一貫した方向を示すべきであり、それは権利を尊重して「他の者との平等」を実現していくという明確な方針にほかならないはずである。

ノンステップバス、ユニバーサルデザインタクシー

2019.7掲載

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