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有識者から当会広報誌「明日へ」に寄稿していただいた記事の転載です

陣野俊史:サッカーと人種差別

プロフィール

陣野 俊史(じんの としふみ)

1961年、長崎県生まれ、文芸評論家。フランス文学、日本文学。サッカー、音楽など、 批評の対象は広大。サッカーについては、『フットボール・エクスプロージョン!』 『フットボール都市論』と2冊の評論集を上梓している。他の著書に『龍以後の世界』 『じゃがたら』『渋さ知らズ』『フランス暴動』『世界史の中のフクシマ』『戦争へ、文 学へ「その後」の戦争小説論』などがある。

サッカーをめぐる人種差別の現在

2014年7月に『サッカーと人種差別』という本を書きました。この新書は、その年の3月に、埼玉スタジアムで起こった人種差別事件― ―「JAPANESE ONLY」という横断幕を掲出したこと――に触発されています。私は、もう何十年もフランスを中心にヨーロッパのサッカーに関心を寄せて来た人間ですが、日本でもついに、というか、とうとう、というか、人種差別の空気がサッカーのスタジアムに入りこんできたのだなあと思いました。ヨーロッパでは随分以前からサッカー界の人種差別は問題になっていました。サッカー界はそうした差別意識と闘ってきたと言えると思います。
だから、まず、この本を書いた狙いを簡略に言えば、差別との闘いの歴史を振り返ること、そして、できれば日本でもそうした歴史から何か学べることがあるならば、具体的に活かしていきたいと思っていました。

本を書いている最中、そして、書いてからも、サッカー界には差別とはっきりとわかる事件が相次ぎました。本を書いている最中には、ブラジル代表でFCバルセロナ所属の、ダニエウ・アウベスという選手がコーナーキックを蹴ろうとしたところ、観客席からバナナが投げ込まれ、アウベス選手がそれを拾い上げ、数秒で食べて、何ごともなかったかのようにボールを蹴る、ということが起こりました。この事件は、バナナをなげつける、という明確な人種差別に対して、ユーモアでもって返す、という意味で、世界中の人たちの関心を集め、支持されました。

しかし、少し立ち止まって考えて欲しいのです。たしかに、お前は猿だからバナナでも食べていろ、という人種差別主義者には、バナナを素早く食べるというユーモアで返すことがもっとも効果的だったかもしれません。ただ、この行為にはそれだけではない、別の側面もあったと思うのです。それは、ユーモアが表面に出ているぶんだけ、人々が事態をシリアスに受け取らない、つまり、それが深刻な差別を含んでいるということが正確に伝わらないまま、世界中に(主としてTwitterやFacebookなどのSNSを介して)伝播してしまったのです。

その後、日本でもサッカーをめぐって、明らかに人種差別と思われる事件が二つ起こります。ひとつは、2014年9月、横浜マリノスのサポーターが川崎フロンターレのブラジル人、レナト選手に対して、バナナを振った行為。もうひとつは、2015年、浦和在住の高校生が、ガンバ大阪所属のパトリック選手に対して、試合後、彼の人種に対してTwitterで冒涜的な言葉を書き込んだ事件。前者は、バナナを振るという行為が持つ深刻な意味をまったく考えていません。なにげなくやってしまった、ということでした。後者も、行為の重大さを鑑みず、ついやってしまった、ということになっています。どうしてサッカーに関して人種差別が横行しているのか? と不審に思われる方もいらっしゃるでしょう。私は、事態は逆ではないか、と思っています。つまり、サッカーはむしろ人種差別を許していないのだ、と。だからこそ、人種差別があったとき、反応できているのだと考えています。そして、スタジアムの外に排外主義や人種差別が(たとえ眼にはあまり見えない形でも)はびこっているとき、サッカー場では不思議なことに、それに類した事件が起きています。

ジョン・バーンズの態度

少し遡って考えてみたいと思います。さきほど、アウベス選手の行為がユーモラスであった、と私は書きました。人種差別にはユーモアで返すべきだ、という立場があります。この立場には先駆者がいます。たとえば、ジョン・バーンズという元イングランド代表選手です。彼はジャマイカ出身で、イングランドのプレミア・リーグの人気チーム、リバプールで八〇年代、プレーしていました。彼はその間、苛烈とも言える人種差別の嵐に見舞われました。彼の自伝から少し抜粋します。

人種差別は、笑われるべきである。私のリバプールでの最初のシーズンのとき、チームでクリスマスの仮装パーティが催されることがあった。私はKKK(アメリカの白人至上主義団体)の格好をして参加した。もともとはバナナの格好をしていこうと思っていたのだが、近所のどこにもバナナ・スーツを見つけることはできなかったからだ。私のKKKの扮装は、多くの黒人たちを激怒させた。「笑うことじゃないん だ」と彼らは私に叫んだ。「KKKの連中が黒人に対して何をしたのか、考えろよ」。私はこう返事をした。「KKKこそ笑われるべきなんだ」と。

(陣野俊史『サッカーと人種差別』、文春新書、2014年、89頁)

しかし、バーンズは別の箇所でこんなことも言っています。

私が活躍したことで、リバプールとエバートンは人種差別撤廃のアクションをとることを決めた。アンフィールドやグディソン(エバートンのホームスタジアム)で私が受けた侮辱に対するリアクションは、ホームにはびこる人種差別を人々に気づかせたけれど、私はそれが何かを変えたなんて信じることができない。
人種差別を根絶しようとするキャンペーンは、単なるポリティカル・コレクトネス()の実践でしかなかった。
「もし少しでも人種差別的な応援のための歌があったら、グラウンドから締め出すぞ」という警告文があったとしても、何かが達成されるわけじゃない。人種差別主義者たちは90分間黙っていなくちゃならないかもしれないが、人種差別主義者のままだ。そんなサインは、人種差別を地下に追いやるだけで、事態はなおさら悪くなるだろう。(前掲書、87頁)

つまり、人種差別主義者たちへの深い絶望があり、だからこそ彼らのことを笑わねばならない、と反転しているのです。この二面性がジョン・バーンズを動かしていたのです。ここには十分に注意する必要があると思っています。

レイシストの投げたバナナを拾い上げて食べるというだけでは、ユーモアが独り歩きしてしまう。レイシストたちに対する絶望を表明しつつ、彼らにユーモアをもって向き合うという両面を備えていることを、つねに意識しなければ、バナナはただの侮蔑の記号のままだと思います。人種差別を行ったサポーターは、自分がレイシストになったことさえ、気づかなかったでしょう。なぜなら、バナナを介するユーモアにしか目が行かなかったから。ここに、サッカーの人種差別の歴史を知る意味が生まれます。二面性は歴史の中にあります。それを掘り出して知ることでしか、自分が知らぬまにレイシストに陥っていることを回避することはできないのではないか。そう思います

(注) 政治的・社会的に公正・公平・中立的で、差別や偏見を含まないこと。

教育の必要性

それから、もうひとつ。ジョン・バーンズも何度も自伝の中で強調していることがあります。それが、教育の重要性です。人種差別主義者になってしまった人間を変えることは容易ではありません。しかし、子どもたちにはまだ教育によって人種差別主義に染まらないようにする余地が残されています。話を少しフランスに絞らせてもらうならば、かつてフランス代表だった元選手に、リリアン・テュラムという人がいます。 サッカーの歴史に名前を残しているような名選手が政治的活動をすることは、それほどあることではありません。影響力が大きいことを知っているので、いまの選手たちは特に口を開きません。

だが、リリアン・テュラムは違います。現役時代から折に触れて、政治的な発言も辞さないできた。2005年10月末から11月にかけて、フランスの主要都市の郊外で、若者たちが暴徒化して、毎晩たくさんの自動車を焼いたことがあった。日本では漠然と「フランス暴動」と呼ばれることが多いのですが、この緊急事態でもテュラムは発言した。その概要はこうでした。「私も郊外で育った。もし誰かがゴロツキを一掃しなければならないと言ったとしたら、私はそれを私に向けられた発言と捉えるだろう。暴力はタダじゃない。不安がどこから来たのか理解しなければならない。不安について語る前に、社会的正義について語るべきなんだ」と。

現役引退後は、人種差別撤廃のための基金を設立し、教育活動に取り組んでいます。彼のホームページから一部を訳してみます。

サッカーに暴力も暴言もいらない!

日本サッカー協会のポスター©JFA

人は人種差別主義者(レイシスト)に生まれるのではない。人はレイシストになるのだ。この事実は人種差別に対抗するための教育基金の礎である。レイシズムは、何よりも知的な構成物だから。われわれは、世代から世代へと受け継がれていく歴史において、黒人や白人、マグレブ人(アルジェリア、チュニジア、モロッコ等北アフリカ出身の人々)、あるいはアジア人として人を見るよう条件づけられてきたことに、注意を向けなければならない。 偏見を壊すためには、偏見がどんなふうに浸透しているかを理解することが重要だ。肌の色や人種、宗教、セクシュアリティ、その人が話している言語、身体能力、国籍は、なんらその人の知性を規定するものではないという単純な思想を、好き嫌いとは別に、私たちの社会は広めていかなくてはいけない。私たち一人ひとりは、最悪のものと最高のものを、それが何であれ、学ぶことができるのだ。

まずは知ること。歴史であれ、現在世界で起こっていることであれ、人種差別について深い知識と見識を持つこと。これに尽きると思います。

FAREのこと

そこで最後にひとつ、どうしても書いておきたい活動があります。それはFARE(欧州サッカー反人種差別運動)です。1999年に設立されて以後、諸々のサポーター・グループ、NGO、そして素人や活動家によって構成されています。ローカルなもの、インターナショナルなもの、つまりサッカーにまつわる、あらゆるレベルの差別をネット上に公開し、周知し、反対し、撤廃していこうとする団体です。

ひとつ例を挙げます。私が書いた本の中でも紹介したのですが、エレナ・コスタという女性指導者のことです。彼女は、選手の力量を的確に見抜く目を備えている、カリスマ的なスカウトだったのですが、フランスリーグの2部に属する男性のクラブの「監督」に就任するということで俄然、注目を集めたことがありました。2014年のことです。

結局、うまくいかず、彼女は就任して試合で指揮をとる前に、監督を辞任しました。つまり、世界中から集まる視線――男性のクラブの「女性監督」としてのみ注目されるという、異常な事態が起こり、その収拾に奔走しなければならなかった、というのが真実のようです。これは、女性差別、女性嫌悪が見え隠れしている事例ではないかと思います。

結論として述べることはシンプルなことです。スタジアムで起こっていることは、その外でも起こっている。サッカーをめぐる人種差別はその社会を反映しています。そのことに十分、留意したいと思います。そのためにサッカーが人種差別と闘ってきた歴史をもっと知って欲しいと願います。

2016.9掲載

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